クリント・イーストウッドが監督・主演を務める『ミリオンダラー・ベイビー』を鑑賞しました。
公開当時、その"結末"に関して世界中で賛否両論があった本作。
ラストシーン含め、映画の内容についてはまったく事前知識を入れずに観たのですが、知らずに観た分、かなりの衝撃を受けました。
今回は、そんな映画界の衝撃作『ミリオンダラー・ベイビー』のあらすじや感想を書きたいと思います。
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『ミリオンダラー・ベイビー』とは
クリント・イーストウッドが手掛けたアカデミー賞受賞作品
「クリント・イーストウッド」といえば、ハリウッドを代表する名優中の名優。近年では俳優業だけでなく、監督業にも積極的に携わっています。
そんな彼の監督作品として25作目にあたる本作は、映画としては低予算の3000万ドルと37日間という短い撮影期間で制作されました。
イーストウッドは比較的短いスパンで映画を撮ることで有名ですが、それにしてもこの作品は短い。普通は1年とか、もっと時間をかけて撮るのが常識とされるアメリカ映画で、1ヵ月ちょっとで一本の映画を撮るというのはすごすぎます。
それでいて映画としてのクオリティをしっかりと保っているのは、さすがと言わざるを得ません。
この作品は、第77回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞と主要4部門を独占。圧倒的な成功を収めました。
夢を追いかけ自分を貫き通す女性ボクサーと、彼女を支える孤独な老人トレーナーの物語
本作の物語は、「夢をあきらめきれない女性ボクサー」と「孤独な老人トレーナー」の二人を中心に繰り広げられます。
あらすじは以下の通り。
アメリカ中西部でトレイラー・ハウスに住むほど貧しい上に家族が崩壊状態にあり、死んだ父親以外から優しい扱いを受けてこなかったマーガレット(マギー)・フィッツジェラルドは、プロボクサーとして成功して自分の価値を証明しようと、ロサンゼルスにあるフランキー・ダンのうらぶれたボクシング・ジムの戸を叩いた。
フランキーはかつて止血係(カットマン)として活躍した後、トレーナーとなってジムを経営し、多くの優秀なボクサーを育ててきた。しかし、彼らの身の安全を深慮するあまりに慎重な試合しか組まない上に不器用で説明が不足していたことからビッグチャンスを欲するボクサーたちに逃げられ続け、その不器用さは家族にも波及し、実の娘ケイティとは音信不通になっている。
マギーがジムに入門したのは、フランキーが最近まで手塩にかけて育ててきたビッグ・ウィリーに逃げられたばかりの時だった。最初フランキーはマギーのトレーナーになることを拒んだものの、フランキーの旧友でジムの雑用係、元ボクサーのエディ・『スクラップ・アイアン』・デュプリスが彼女の素質を見抜いて同情したこともあり、次第にフランキーは毎日ジムに通い続けるマギーをコーチングしはじめる。そして練習を通じ、やがて2人の間に実の親子より強い絆が芽生えて行く。
イーストウッド演じる老人トレーナーが本当に不器用なキャラクターで、自分の考えや思いやりの気持ちをうまく相手に伝えることができないのです。
そんな彼を、主人公であるマギーとの出会いが変えていきます。
マギーをプロボクサーとして成功させることを目指し、その中で徐々に育まれていく絆。そんな温かい気持ちになれるヒューマンドラマです。ここまでは・・・。
物議を醸した"尊厳死"を扱った衝撃のラスト
約2時間の映画の中で、1時間30分くらいまでは不器用ながらも、どこか温かみを感じるような物語なのです。
しかし、ラスト30分で物語は大きく急変。
以下、あらすじの続きです。
マギーはフランキーの指導の下、試合で勝ち続けて評判になりはじめる。あまりの強さから階級を上げる事になったものの、そのウェルター級で遂にイギリス・チャンピオンとのタイトルマッチにまでたどり着く。この試合でアイルランド系カトリック教徒のフランキーは、背中にゲール語で「モ・クシュラ」と書かれた緑色のガウンをマギーに贈るが、マギーがその言葉の意味を尋ねても、フランキーはただ言葉を濁すだけだった。
タイトルマッチの後も勝ち続けてモ・クシュラがマギーの代名詞ともなり出した頃、フランキーは反則を使う危険な相手として避けてきたWBA女子ウェルター級チャンピオン、『青い熊』ビリーとの試合を受けることを決める。この100万ドルものビッグ・マッチはマギーが優位に試合を運んだが、ラウンド終了後にビリーが放った反則パンチからコーナーにあった椅子に首を打ちつけ骨折し、全身不随となる。
フランキーはやり場のない怒りと自己嫌悪に苛(さいな)まれ続け、案の定家族からの支えもまったくないマギーは完治の見込みがない事から人生に絶望し始める。やがてマギーは自殺未遂をするようになり、遂にはフランキーに安楽死の幇助(ほうじょ)を依頼する。フランキーは苦しみ続ける実娘のようなマギーへの同情と、宗教的なタブーとのはざまで苦悩したものの、最後はガウンに綴られた「モ・クシュラ」に込めた気持ちを伝えると共に、薬で意識朦朧(もうろう)とするマギーにアドレナリンを過剰投与し、姿を消した。
ボクサーとして勝ち続け、波に乗るマギー。それはまさに、彼女がずっと思い描いていた"成功"そのものです。
しかし、ウェルター級チャンピオンを賭けた一戦。そこで悲劇が起こります。
相手選手の反則攻撃により、マギーは首を骨折し全身不随となり寝たきりの状態に。これによってボクサーとしての選手生命はおろか、普通の人間としての生活も送れなくなってしまいます。
回復の見込みもない彼女に悲劇は続き、これまで彼女が稼いだ賞金の無心に来る家族や、床ずれによる壊死での片足切断など・・・。その転落っぷりはあまりに悲しく直視できないほどでした。
そんな彼女は、「自分はもう十分夢をかなえた。このまま誰かに迷惑をかけながら生きていくのは耐えられない」として、老人フランキーに安楽死のほう助を頼むのです。
悩みに悩んだ末、病院のベッドで眠る彼女を殺し、どこかへと消えてしまうフランキー。
それが、問題とされる本作のラストシーンです。
感想
尊厳死や安楽死といった問題の是非は、正直僕には答えが出せません。
しかしこの映画を観て真っ先に感じた感想は、「自分がその立場でも、同じことをするだろう」といったものでした。
世間では全身不随となったマギーが死を望むことに対して、「世の中の全身不随者に失礼だ!彼らは希望を捨てずに生きている!」といった批判もあるようですが、それとマギーの決断はちょっと違う話かと僕は思っています。
マギーにはボクシングしかありませんでした。ボクシングで成功することがだけを夢見て、貧乏な暮らしや周りからの目にも耐えてきた。
そんな彼女が夢であったプロボクサーとしての成功をおさめ、これ以上ない幸福を得た。
だから彼女は、「もう十分だ」と思い死を望んだんだと、そう思うのです。
ラストシーンに関して、正しいか間違っているかと問われれば「間違っている」と思います。それはフランキーの行動としても、映画の脚本としても。
しかし、たとえ間違っているとしても"それしかない"といった結論に、僕も行きつくのではないかと思いました。
まとめ
この映画、とにかく考えさせられます。たぶん、何十年たって見返しても「これだ!」という答えが僕には出てこないと思います。
決して"良い映画"ではないですが、僕はこの映画がすごく好きです。純粋に、"面白い"と感じさせてくれました。
スカッとするようなラストではなく、後味が悪いものなので万人にはおすすめできませんが、深く考えさせられる映画が見たいのであればぜひ一度ご覧いただきたい作品です。